
ジャン=ミシェル・バスキア

Jean-Michel Basquiat
(ジャン=ミシェル・バスキア)

1960年 、アメリカに出生。
7歳の頃交通事故に遭い、入院中に母から貰った解剖学の本がバスキアの印象に深く残ったことで、後の解剖学的なドローイングにつながることになった。同年両親が離婚している。
1973年 、13歳の時に母親が精神病院に入院。
1976年 、友人と共に”SAMO”というユニットを結成する。
17歳の時に父親に家を追い出された後は友人の家に居候をし、自身で制作したTシャツやポストカードを販売して生計を立てていたそう。

1976年 、当時のNew Yorkのグラフィティアートでは、「数字と名前」のシンプルなタギング(個人やチームの名前を書くこと)で飽和状態。
そんな状態の中、消費主義や政治のことを描いた風刺的な作風は当時のNew Yorkerから注目を集めるが、
1979年 、2人の関係悪化を理由にSAMOの活動は休止しました。

そして1980年 、20歳の彼にとって転機の年になります。
SAMOでの活動を休止していたバスキアは、初めて自分名義でのグループ展に参加。たくさんの有名アーティストが参加している中、様々な美術評論家や学会員の目に止まることとなります。
これをきっかけにアーティストとして生きていくことを決意します。

同年、『ポップアート』で有名なアンディ・ウォホールと出会い2人は親交を深めていきます。当時のバスキアにとっては憧れの存在だったのでは…。
その後は2人のコラボ作品を作るに至るまで親密な仲になったそう。

20歳以降、ニューヨークを含む世界各国で活躍していくバスキア。当時有名なギャラリーや美術館が、バスキアの作品を独占的に取り上げるほど世界のアートを席巻していました。
ですが1987年 、アンディ・ウォーホル死去。
この悲しみにより常習だった薬物使用が激化。
翌年1988年 、薬物過剰摂取によりバスキアは急死しました。

そんな彼のアートとしての功績は、
『挑発的二分法』を生み出したことにあると考えられています。
挑発的二分法とは…
2つのものに焦点を当てて作品を制作すること
バスキアの作品は、
『金持ち』と『貧乏』、『黒人』と『白人』などの相対するもの2つに焦点をあてて制作しているものが多く見られます。

どういう皮肉か当時よりも現在の方が付加価値がついているバスキア作品
当時は他にはない美的センス、解剖学からのインスピレーションを昇華したオリジナリティ、バスキア本人の人間性などが評価されていたに違いありませんが。
今はどうでしょう、
「バスキアの作品だから」、「〜年の作品だから」
そう言った表面的な評価が前提に回っている気もします。
アートという物を表面的に評価することは正しいことであり、表面からストレートに伝わってくる物こそ本当に良い作品なのかも知れません。
ですがアーティストの生い立ち、人間性などを理解した時、
アーティストが表現したかった真の姿が見えてくるのではないでしょうか。

そんなバスキアのコラボアイテムがあるような、ないような
是非とも店頭にてご確認ください。